世田谷区史の執筆にあたり、 世田谷区が歴史研究者に著作権譲渡と著作者人格権不行使を強要し た「世田谷区史編さん問題」。報道でも取り上げられ、 区側に批判が集まる一方、 自治体史は自治体のものだから個人の研究などではなく、 著作権や著作者人格権という話にはそぐわない、 という声もあとを絶ちません。
こうした誤解をなくすために、「 一般にはあまり知られていない事実」を記したいと思います。 すなわち、
(2) 本来的には研究者が一丸となって行政の理不尽に対抗すべきところ 、 大学院生やポスドクなどの弱い立場にある研究者は経済的理由や人 間関係等から、抵抗できない
(3)自治体史は、そんなに頻繁に作るものではない( 50年に1度くらい)
まず、2023年7月のシンポジウム『歴史研究と著作権法』 では、石原俊さん(明治学院大学)や、木下光生さん( 奈良歴史研究会事務局長)が、「 自治体史は歴史学界においては個人の研究実績として扱われるから 、勝手に書き換えられると困る」という話をしてくださいました。
①研究者(大学構成員・非構成員両者含む)側は、 行政当局側に対して、研究実績・実績へのカウントを条件に、 学術的瑕疵がない水準での調査・執筆を保障する
②行政当局側は、報酬最重視の非専門家ではなく、 専門家による内容の学術的精確性・妥当性が確保された自治体史・ 誌を確保できる
をあげ、「戦後日本において、行政当局と歴史研究者の「 暗黙の了解」(絶妙のバランス)のもとに成り立ってきた“ win-win”関係」とまとめられました。
また、木下さんも
②自治体史は研究者の食い扶持になっている。
として、「 本来的には研究者一丸となって行政の理不尽に対抗すべきところ、 大学院生やポスドクなどの弱い立場にある研究者は経済的理由や人 間関係等から、抵抗できない。 このような分断を生み出すことの深刻さを、 世田谷区はよく考えるべきである!」と語られました。
上記の詳細につきましては、ネッツによる報告記事や、 当日の発表者のひとりオオスキトモコさん記事をご参照ください。
こうした権利・責任関係の所在( いずれも執筆者にあるということ)のほかに、 自治体史はどのくらいの頻度で作られるのか、 ということもあまり知られていません。自治体史は、 教科書のような感じで、頻繁に作られるもので(4年に1度とか、 10年に1度とか)、ゆえに世田谷区史編さん問題においても、 最悪、今回は委員から抜けて、次回書けばいいじゃない、 くらいに思っている方もいるかもしれません。
しかし、自治体史の編さんは、 めったに行われるものではありません。たとえば、 世田谷区史の場合、前回『新修世田谷区史』 が刊行されたのは1962年となっています。 実に半世紀以上ぶりの事業です。
このように、
(2) 本来的には研究者が一丸となって行政の理不尽に対抗すべきところ 、 大学院生やポスドクなどの弱い立場にある研究者は経済的理由や人 間関係等から、抵抗できない
(3)自治体史は、そんなに頻繁に作るものではない( 50年に1度くらい)
という点はあまり知られていませんが、重要ではないでしょうか。 とくに、なぜ他の委員は合意しているのか、という点は、(2) の説明がないと、わかりにくいと思われます。 ほかの委員が声をあげないのは、「著作権法に無知」 なだけが理由ではなく、さまざまな「しがらみ」や「問題」 もあるのだ、ということを知っていただければと思います。
かつて『新修世田谷区史』を編纂された、日本中世史家で、 吉良氏研究の大家である荻野三七彦博士は「 区史は区によつて行われた公共事業であるが、 それが直接に区の宣伝になるものでもなく、区民は勿論、 もつとひろく一般大衆のものでもあり、 民主的な事業として終始し得たのであつた。 そこにこの仕事のほんとうの意義もあつたものと思つている」「 一般の地方史の編纂者は、毅然たる識見を持つて欲しい」 と回顧されていたようです(入交好脩「書評『新修世田谷区史』( 上・下巻・附編)、『世田谷区史料』(第一~四集)」『 社会経済史学』29 (4-5)、1964年)。
数々の問題をひきおこし、 およそ強権的かつ閉ざされた状況の現在の世田谷区史編さん。 泉下の荻野博士は、いまの世田谷区および歴史学者(委員) の頽廃をどう見ておられるのでしょうか。
(谷口雄太)